恋外202004

ひとふで小説|レンガイケッコン(15)

これまでのお話:第1話収録マガジン(前回まで)


(15)

 運転席に乗り込もうとした蓮本は思い出したように身を引き、前を半ドアにしたまま後部座席のドアも開ける。後ろにスーパーの袋を置きながら、
「お荷物、邪魔だったら後ろも自由に使ってくださいね」
 と言った。
「ありがとうございます、でも大丈夫です。そんなに多くないですから」
 汁気が漏れ出る虞れのある物は袋に入っていないから後部座席に荷物を置いたところで蓮本にかかる迷惑は恐らくないのだろうが、どうしても、の理由でもない限り、大抵の物事は遠慮しておくほうが望ましいと思ってしまう。なんとなく。
 どのみち短距離を移動する僅かなあいだ体温が触れたところで傷むような物は買っていないので、東之は礼を言いながら助手席のドアを開けた。
 開けながら、遠慮がちに蓮本に尋ねた。
「あの…西関さん、来る時に聞かせて頂いた整備士時代のお話…もうちょっと聞いても、…いいですか?」

 蓮本は一瞬の逡巡をしたが、一拍おいて頷いた。逡巡の理由は東之に分からなかったが、確かに蓮本は一瞬おいて、その間の視線は、どこ、ともつかない宙空に置き去りになった。
 相変わらず通りには車が往来しており、走行音が風に混じっている。
 無言の承諾だったのか、それとも小さな返事の声が街の音に掻き消されたのか。車を挟んだ距離から東之が知ることはできなかった。
 車体の屋根を越えた向こうから運転席側のドアの閉まる音がして、蓮本の重みを受けた車がほんの僅かに応じて揺れる。シートベルトを引く音は、屋根の下を通って半開きのドアの中から聞こえた。
 逡巡の気配に気付いた東之は引き下がることもできたが、せっかく蓮本が下してくれた決断を無に帰すことが惜しかったし、何よりも“回復”の機会を失うことが勿体なく思える。
 誰の何が“回復”する機会なのか、というと一体なんと答えたいのか東之には分からない。シンプルに、自身の気分の回復と言ってしまえばそれまでだし、蓮本に負わせてしまった「私がモヤモヤしている原因はあなたに身の上を知られたことだ」という『一方的な悪い関係性』をこっそり改修工事することにより“東之にとっての蓮本の好感度を回復”する…と言えば、それはあまりに身勝手だが、状態を説明するには後者のほうが適切な表現かもしれない。

————「 一人暮らしだし、彼氏も居ないんですよ」
 読書趣味からすれば“折り合いの悪い文筆家”という切り捨てたい存在でもあり、特定のパートナーを持っているという面では世相に定められた“女として正しい人生”を送っている蓮本が立ち会う前で、独り身であることを口走ってしまった。後悔を感じている。それで今日は調子が悪かった。
 東之は、だから、それならもう少し自分の中で蓮本の株を総合的に上げてしまえば、蓮本にネガティブな感情を抱かずに済むのではないかと考え始めている。身勝手なやりくりだ、とは思いながらも。
 独り身と知られた事実は消せない。消す必要性も本来の考え方からは思いつけない。
 ただ、世の中からまるでそうと決められたみたいに、結婚していないことや子供が居ないことを「人格的に劣っている」と“自省”し、「自分は一人前の人間ではありません」と“慎む”癖だけはついているし、自分を支える基礎となるはずの肯定感が脆いから、本来の考え方よりも自身を蔑む癖のほうが人格の本質だったみたいに牙を剥いてくることもある。
 だから、ここがこんな世界だから、自分が自分だけで自分のまま生きている尊厳を足蹴にされないために、面倒だから、知られた事実を消してしまいたい。
 けれど、消せない。
 消せないのならせめて「消したい」という感情を持っている事実ごと希釈して世間の決まりごとをある程度受け入れながら生きている風な素振りをしたいのだが、蓮本が相手では、軽薄な方法で独り身の自分を明るく見せることも自分を下げて低姿勢を装うことも、いずれも難しそうだった。
 独り身を自虐として笑い飛ばす“お作法”は、一応心得ている。が、そういう社会が押し付けた作法を蓮本が毛嫌いしているのは、著作などから手に取るように分かる。分かっているし、そもそも東之は信じている。蓮本が決して、パートナーの有無や家庭を持つという“ゴール”への距離によって人を裁かないことを。
(西関さんは、自分が結婚して幸せな家庭を持っても、私が恋愛や結婚に積極的にならなくても、私が一生独りでも、絶対に私の独りを蔑まないだろうな…。でも…)
 脈々と湧いてくる信頼と引き換えに、嫌な予感もあった。
 いつか蓮本は、“妻”として、“母”として、“女”として圧倒的な立場を手に入れたとしても、決して“下”を、笑わない、比べない、隔てない姿勢を貫くだろう。こんな未来予想は容易で、逆にそれが“下々の人間”のまま生きる予定しかない東之にとって、まだ何も起きていないうちから、正しすぎて、眩しすぎた。眩しすぎて、やがて蓮本は東之にとって、益々直視できない存在になるのだろう。

 東之はその眩しさが蓮本の人生を形成する暗い本質由来であることに薄々気付いていた。世相の犠牲者に対して、なるべく広く深く聡明であろうと努める蓮本の思想信条の土壌となっているのは、過去の自分を救済する意図か、どんな強い属性を手に入れても寛容を貫けるように未来の自分へ念押ししているようでもあった。
 東之の見立てによれば、蓮本が家庭づくりや恋愛に失敗する人を笑わないのも人の下に人を置こうとしないのも、明るい性根があるからではない筈で、蓮本にとってそれらの種類の“敗北”が、昨日の自分・今日の不安・明日は我が身に他ならないからだ。将来、母にでもなって幸せになった自分が、子どころか夫すらも持たぬ未婚の女を下に敷けば、見ず知らずの“敗者”だけではなく過去の蓮本自身も踏みにじられるのだ。
 だからこそ蓮本の姿勢は信頼に値すると東之は思う。
 蓮本の振りまく温もりは、もともと明るい人が辛い経験を経て得たものとは違って見える。だからといって、明るかった性根を腐らせるほど人生に躓いて、他者を庇う余裕を失い、暗いほうへと堕ちる者が辿る類いの悪い変貌も感じない。
 元より暗い心根の人間が、自身の人生を抱きしめたついでの熱で、同じ人種が暖まっていっただけ。
 蓮本から生じる温もりは、きっと終わらないのだ。蓮本が我を忘れるほど生涯に渡って幸福に溺れない限り。

「管理人さん、どうぞ、乗ってください。…どうかしました?考え事?何か買い忘れですか?」
「あ、いえ…。ありがとうございます」
 東之はどこか上の空のまま、借り物の助手席に乗り込もうとした時、カツン、と音がした。
 咄嗟に振り返る。
 音の主はどうやら東之の作業服のボタンだった。乗り込む動作の時に、車体に当たってしまったらしい。
「なに、管理人さん、そういうドジっ子みたいな感じ?あはは、大丈夫?ぶつけて痛くなかった?」
 車体を傷つけてしまわなかったか気掛かりで、すぐには会話が続けられないほど動転した。「ああ…あ…ごめんなさい…どうしよう…大丈夫かな…見た感じ何もなさそうですが…ごめんなさい…不注意で…どうしよう…ごめんなさい…」
 慌てて車体に目を配ったが、ぱっと見て分かるような異変はない。
「す、すみません…精算が済んでるから、この駐車場に長居できないですし、すみませんがマンションに戻ったらしっかり目視して頂いてもいいですか?傷がついてしまったかも…。ちゃんと賠償責任を果たすまで逃げたりしませんから…」
「果たした後は逃げるの?ふふふ、大丈夫ですよ。長く使えば傷がつくタイミングだってありますよ。故意じゃないんだから」
「いや、で、でも、大丈夫かどうかは、すみません、後ほど見てもらった後で…」
「私もそのくらいぶつけちゃうことありますよ。多分大丈夫ですよ、安心してください」
 固まっている東之の顔を覗き込んで、困ったように笑った。
「…管理人さんはここで安心しちゃうタイプじゃないか。待って。三分以内に出庫すればいいって書いてあったから、あと一分半ぐらい平気でしょ」
 シートベルトを外した蓮本は車外に出ると、助手席側に回って歩いた。後部座席を囲むようにして蓮本の足音が東之に近づいてくる。
「あっ!」
「なんかありました!?やっぱり擦れてますか!?」
 東之は助手席から身を乗り出した。
「鳥のフンが命中してる、最悪〜。あとは異常なし。…どう?安心しましたか?」
 顔だけ東之に向けて、蓮本は来た路を戻りながら言った。
 蓮本の足音がトランクの向こうに遠のいたところで助手席のドアを閉めた東之は、蓮本が再び運転席に戻ってくるまで待ってから、
「せめて洗車代ぐらい出させてください…」
 と申し出た。
 蓮本は少し得意げな笑みを浮かべたまま無言で人差し指を立て、サンバイザーを二度つついた。残高8300円、洗車場のプリペイドカードが挟まっている。
 東之は、またやられた、という顔をして溜息を吐いた。

レンガイケッコン202004

つづく

(作・挿絵:中村珍/初出:本記事)

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noteは超・不人気マンガ家(中村珍)が無職になったとき「自力でweb雑誌みたいなのやって描き続けよう」と思って始めました…が、存外にうまくいき、おかげ様で今は忙しいです。犬と、ゲームと、マンガ描くのが好きです。| https://ching.tv

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