恋外201907

ひとふで小説|レンガイケッコン(7)


これまでのお話:(第1話)〜(収録マガジン

(7)

「わぁ…!!!!…か、管理人さん…。ごめんなさい、居ると思ってなかったから、びっくりしちゃいました。こんにちは!」
 思わず驚いた声を上げてしまった非礼を蓮本が詫びると、東之は、
「いいええ。こんにちは」
 と柔らかく微笑みながら軽く会釈して、すぐにそのまま清掃作業に戻った。真面目だと思う。
(管理人さん、偉いな。私なら立ち話を始めてしまう場面なのに…)

 なんらかの企図は、よほど明確な意思を持って行うべきなのかもしれない。たとえば、「チャンスに見えるものが巡ってきても、計画をじっくり練り上るまでは実行しない!」とか、「必ずプラン通りに実行するのだ!」とか。
 しっかりと胸に決めておかなければ案外アッサリ計画を倒壊させてしまうくらい、蓮本は突然巡ってくる“チャンスのようなもの”に弱かった。
 ついさっきまでどのように『結婚』を申し込むかあれこれ戦略を考えては没し、悩んだまま何の結論も出せなかったというのに、こうも都合よく目の前に現れられては無鉄砲だとしても今すぐスゴロクの駒を進めてしまいたいと思う。

「い、いつもお掃除してくださってるんですよね。ありがとうございますっ!」
 蓮本は、いかにも制御ができていない口調と、どこかぎこちない勢いを纏った動作で東之にお辞儀した。仕事の邪魔をしていることについて申し訳なく思いながらも、東之と話したい欲求をうまく抑えきれずにいる。
「いえいえいえ、これが仕事ですから。でも、ありがとうございます。結構みなさん無言で通り過ぎていくので、やっぱりそう言って頂けると嬉しいですね」
「そういうものですか?」
「あ、もちろん声を掛けてくださる方もいらっしゃるんですが、それに、全然、黙って通り過ぎる方が悪いとは思わないですよ。私の邪魔をしないように遠慮してくださったのかもしれませんし、イヤホンしてる方も。皆さんお忙しいでしょうから、私を気に留めて労って欲しいっていうわけじゃないんですけど、言われたら、そりゃ嬉しいですよ」
 東之は向き直って頭を下げ直した。
(仕事中の管理人さんを引き止めたってご迷惑お掛けするだけなのに。ダメダメダメ…切り上げ切り上げ)
「自分の家の前をやって頂いてるのにお手伝いもせずに出掛けてしまいますが…。ゴキブリ出ちゃって…殺虫剤買いに行くんですよ。お掃除ありがとうございます。それでは」
 蓮本は緊張のあまり格好のつかない外出理由を正直に口外してしまって、恥ずかしくなった。

「あの、管理人室にありますから、お持ちしましょうか?買いに行ったら見失って探すところからスタートになりますよね?」
 立ち去ろうとする蓮本を、東之は呼び止めた。
「…………あ、………………えぇと……」
 蓮本は逡巡した。
 ゴキブリが居るのは気にはなるけれど、殺虫剤を買いにいく間の留守中、ゴキブリが部屋を跋扈することについて、深刻な恐怖を抱えるほどの苦手意識はない。
 帰宅次第いつでもスマートに殺せるので、という心の余裕があった。
(でも、断ったら部屋にゴキブリが居ても平気な、不潔な人間だと思われる…?これから私はこの人に結婚生活を申し込もうと企てているというのに、わざわざそんな不利な状況を招いてハードルを上げてしまうなんて嫌…。好意に甘えるべき?だけど、まだ今ここが三階でしょう?管理人さんは最上階まで掃除しなきゃいけないはすだから、そんなことに時間を使ってもらうのは申し訳ないし…)

 暫し沈黙した蓮本の顔を控えめに覗きながら、東之は肩を竦めた。
「あ、いや全然、無理にお引き止めするつもりはないんですが…。ご自身で散歩がてら?ドライブがてら?行きたいですよね、すみません…」
「あっ…いえ…全然、そんなことは…!すみません、黙り込んでしまって。…………あの、正直、私、平気なんです。ゴキブリが出ても、ああゴキブリか〜…ぐらいしか思わなくて、キャーッ!みたいなの、全然なくて。だから、せっかくご心配頂いて、今お仕事の邪魔をして取りに行ってもらっても、それほど急いでいるわけじゃないから、管理人さんが下まで降りてくれた分の労力が無駄になってしまうし、どうしよう、って思っていただけなんです。お申し出は本当にありがたいんです」
「え、平気なんですか?ゴキブリ」
「はい。苦手ですか?管理人さんは」
「…いや私も大丈夫です。ダメか大丈夫かの二択なら一人で淡々と対処できる、っていう程度で。好きじゃないですよ。こうやって掃除していて虫が落ちてるとウェって思いますし…チリトリで回収する時とか、動いたりするとヒェってなりますし…。絶滅してくれたら助かるけど、でも、まあ、出るなら出るで、仕方ないから来るなら来いやァ〜って感じですかね。……実は、今驚いちゃったのは…勝手に、みんなゴキブリが怖いはず、それほど怖くない私は特殊、って無意識に思い込んでいたからなんです。完全に偏見ですね。殺虫剤、すぐお持ちしますね」

 東之は、蓮本の部屋と向かい合った廊下側の壁に小ぶりなホウキを立てかけて、壁とホウキの間にできた三角の隙間に、くすんだ銀色をしたチリトリを滑り込ませた。大きなゴミ袋の口を手早く纏めて仮結びして、その上に軍手をパサリ、と投げ置くと、
「よろしければお部屋でお待ちくださいね。今日ちょっと肌寒いですから」
 と言って、蓮本の部屋の前から立ち去った。
 ゴミ袋の中には様々なものが入っていた。葉っぱや行き交う人たちに踏まれた様子の丸められたちり紙、コーヒーの絵がプリントされたプラスチックカップと挿さったストロー。袋の底には廊下に落ちていた虫の死骸がいくつも転がっている。

 東之の背中に蓮本は何度も何度もお辞儀した。
 階段に続く曲がり角を曲がる一瞬前で東之は振り返り、蓮本がまだその場に立ってお辞儀を続けている姿を視界に認めると、控えめに手を振るような動作をした。
 友人や恋人に振る手の軌跡と異なるそれはとても慎ましい身振りで、掌はやや前後に揺れていた。セリフを添えるなら、気にしないでください、とでも言いたげな。
 それから東之は、壁で遮られた向こうに消えていった。

  蓮本は、階段の下へ下へとだんだん遠くなる東之の足音を聴きながら、
(ほどよいんだよなあ…)
 と思った。

 不意に冷たい風が吹いて、蓮本はドアの前に静止して待つ状態を、ほんの一瞬だけ煩わしく感じた。
(元はと言えばこの格好で外出しようとしていたんだから、肌寒さにめげたなら私のせいだし、管理人さんは部屋の中で待ってていいって言ってくれたんだから…)
 自ら設定した礼節の質を投げ出したくなる根性の無さを、蓮本は人知れず恥じていた。

 蓮本を待たせている東之は、他の住民が突然現れてぶつからないよう、ビル全体の生活音に耳を澄ましながらも、なるべく普段より速く階段を駆け下りた。おそらく自分が戻るまで、蓮本は部屋に入らないからだ。
 きっとあのままドアの前で待っているだろう。根拠はない。ただ、良くも悪くも、あの人はそういう人だろうと思った。

(西関さん、あんなに感じ良くしてくれたのに、私ときたら……)
「はぁ…」
 東之は、不調の原因が蓮本を交えた会話にあったことにやっと気づくことができた。
 蓮本に落ち度があったわけではないし、不快なことを言われたわけでもない。
 原因は昨日、老人に和菓子を受け渡した際に、自ら口走ってしまった自分の個人的な情報にある。

 和菓子を受け取る直前、老人に尋ねられてしまったのだ。
「こんないいもの、帰って旦那さんにあげたら喜ぶんじゃない?」
 一瞬にも満たないような瞬間、
(そんな個人的なことを含めないと答えられない会話の仕方をしないでおばあちゃん!)
 という無意識レベルの異論が、頭だったか心だったか、どこかを駆け抜けた気がする。それでも相手の世代を思えば、ある程度の年齢に見える女性はきっと結婚して家庭を持っているに違いないものなのだろう。
 そういう、よくある納得の仕方を選んだ東之は素直に、
「一人暮らしだし、彼氏も居ないんですよ」
 と答えてしまった。
 蓮本の前で。
 自分はそれが、たぶん、どうしようもなく嫌だったのだ。

 べつに、居るわけでもない夫や彼氏の存在を捏造してチラつかせてまで張りたい見栄などない。
 彼氏が居ないことを恥ずかしいと思ったことも、劣っていると思ったことも、実は、一度も無い。思わされる機会に遭遇することが多いだけで。
 独身を自虐として笑い飛ばさなければ、既婚者たちから笑われてやらなければ、“独身の正しいお作法”を身につけていない不届き者扱いされてしまう文化が、身近なあちこちにあるだけで。

 だから、東之は自分が独り身であることに“きちんと感じるべき”とされたコンプレックスを、きちんと感じさせられていた。それでも心の奥には「なんでこんなことで悩まなきゃダメなの?悩んでないのに悩まなきゃだめ?結婚が人生の勝ち負けなの?」という、真っ直ぐで明るい疑問の火を、絶やすことなくちゃんと持っていた。

 基本姿勢として、東之は、“蓮本チカである西関井子可”という“顔見知り”に対して好意的である。顔見知りの範囲で、非常に好意的に思っている。『気に入っている顔見知りランキング』でもあれば、完全に、堂々の一位に輝くのは蓮本だ。
 住人ランキングもあるとすれば、さっきドアの前で述べられた謝辞が加算されて蓮本は上位に躍り出たと言えるだろう。ちなみにワーストは誰だか知らないが服装についてクレームをつけてきた“一住人”さんである。尤も、蓮本と東之の関係性の微妙なバランスは、近すぎる生活圏にある。文化人タレントとしての素性も知られている立場の蓮本が管理人に対して横柄な態度を取れるとも思えないので、そのあたりをどう処理するかによって『感じのいい住人ランキング』の順位は変わってしまうが。 
 しかし、『好きな随筆家ランキング』で言えば、これはもう、まったく好きではない。これまで、読むたび読むたび、どれほど苛立ったことか。蓮本が抱える所々の性質は我が事のように心に突き刺さるのだが、総合的にはぜんぜん好きな随筆家ではない。心や暮らしの情景をえがく作品ならば、東之の好きな随筆は、もっと、明るく楽しく幸せな発見の溢れた作風ばかりだ。
 或いは、沢木耕太郎や島崎藤村みたいな、どこか遠く遠くの自分の知らない素敵な場所へ誘ってくれるような、しかし足元の小さな景色や肌を掠めた風のありよう、山の呼気、その町の生活の気配まで見逃さないような、写生文であったり紀行文が好きだ。
 自分と近い世代の、現代を生きる実在人物の閉ざされた心の深淵に触れたいと思うことは、ほぼ、ない。
 本来ならば閉ざされていた心が執筆のために抉じ開けられて荒れた、人生の古戦場のような作風を見守るのは、ただただ気苦労だ。
 好きな随筆家たちに振る評点は、概ねどの作家に対しても「楽しさ5・新鮮さ3・読みやすさ5・共感3・発見4・読後感5…合計25点!」といったところなのだが、蓮本の著作に関しては「楽しさ0・新鮮さ0・読みやすさ0・共感0(部分的な共感9999万9999)・発見1・読後感0…合計1億点!」という形で周りを振り切りに来る。
 蓮本の書くものなんて、自分の落ちた薄暗い大きな大きな深い井戸に、一本だけ垂れている細い細い糸のような体積の分しか好きじゃない。けれどその、か細い糸が救いであるところにタチの悪さを感じる。そこに広がる景色の全てが嫌いだ。だけど救いの糸だけは、渇望していたものに他ならない。
 これが救いの“糸”程度の華奢な代物ではなく、かなり頑丈な救いの命綱のような作風であれば読みやすいのだろうが、蓮本の自己評価や自己肯定感を鑑みるに儚い糸くらいが限界なのだろうと東之は思う。さもなくばあの人は、“度重なる失敗体験”や、“失敗の記憶をただの思い出に変えてくれる人が居なかった”せいで雁字搦めになった人生から、とっくに救われていることだろう。随筆なんて書く必要を持たずに済んだかもしれない。

 そんなわけで、“西関のほうの蓮本”はともかく、“蓮本のほうの蓮本”と東之は折り合いの悪さを感じていた。
 だから、その上で、折り合いの悪い文筆家に対して、自分の私生活の一端を、それも、よりによって、特定の人から愛される生活を送れていない独身であるという“弱点”を、開陳してしまったことが、どうしても悔やまれてならない。
 蓮本が、“独身で一人暮らしの管理人さん”を見下す人格を持っているとは到底思えなかったが、東之は蓮本の家に男性の出入りがしっかりあることをよく知っていた。著作に“お付き合いしている彼氏”として特定の男性が登場する時期でも、しない時期でも。ちゃんと、男の気配がある。そこにだらしない性生活の気配でもあればまだ見下す余地もあるというものだが、取っ替え引っ替えだったり、ゆきずりの相手を部屋に連れて帰る様子はまったくない。少なくとも長期的な関係を試みたであろう特定の男性が一名だけ、出入りしている。結果的にそれがほんの数ヶ月という短期間に終わったとしても、ちゃんとお付き合いしている様子が端端から垣間見えた。
 そんな、今をときめく文化人タレントに、作業服の見窄らしい姿を日常的に見せている自分が、更に“私には誰もいない”ということを不用意に打ち明けてしまった。その事実。
 一瞬でも、“独身で一人暮らし”という属性によって人格を分析されたかもしれない可能性。
 それがたとえ、ほんの、0.00000000000000000000000…0001%でも、蓮本の著作の成分になってしまう可能性を孕むこと。著作の成分になった後に、蓮本の著作ごと、見ず知らずの他人に裁かれて評される構造。
 その何もかもが嫌だった。

 自分の平々凡々な何かが彼女の本の“ネタ”になるだなんて烏滸がましいことは思っていない。蓮本の筆力が、他人の経験や属性に頼らなければならないほど低くないことは東之もよく知っている。作風が苦手なだけで、蓮本の筆力は確かだと思う。あの人は、自分一人分の人生だけあれば、自分の言葉だけで食べていけるだろう。
 だからたとえば「私のこと書かないでくださいね」みたいな、くだらない釘刺しの必要が一切ないことも分かっている。
 ただ、ほんのわずかでも自分が、人生の切り売りを生業としている人の持つ『関わった人データベース』に載ってしまったことが心底嫌だった。
 それが今日ずっと、東之の心を重くしているのだと、さっき漸く気づいたところだ。
 
 こちらはそんな有様で、心がモヤモヤ、モヤモヤ、モヤモヤしていた最中だというのに、さっきの蓮本だ。明るく元気よく「いつもお掃除してくださってるんですよね、ありがとうございますっ!」だなんて。
 狂った調子が更に狂って、一周回って直ってしまう。

 せっかく元気に挨拶してもらったのに、身勝手な不調に苛まれていた自分ばかり「いいええ。こんにちは」と最低限の素っ気ない返事をしてすぐさま目を逸らしてしまった。
 咄嗟のこととはいえ、後悔している。
(感じ悪いって思われたんだろうな…。嫌な気分になったかな…。ああー…やっちゃった。機嫌を外に出しちゃダメなのに。ハスモ…西関さんは何も悪くないんだから…)

つづく

■シリーズの収録マガジンと一覧
「ひとふで小説」は、何も考えずに思いつきで書き始め、強引に着地するまで、考えることも引き返すこともストーリーを直すことも設定を詰めることも無しに《一筆書き》で突き進む方法でおはなしを作っています。
 元々は、具合悪くて寝込んでいた時に「いつも通りストーリーを練って本腰で働くほど元気じゃないし、長時間起き上がって作画するのは無理だけど、スマホに文章を打ち込めないほど衰弱してるわけでもなくて、ヒマだなー…」っていうキッカケで、スマホのテキストアプリに書き始めました。いつもは構成も展開もラストシーンも大体決めて原稿に取り掛かるので、たまには違う作り方も面白いから、即興で突き進み、溜まったものを小出しにしています。挿絵も、こまかい時間を活用して、ご飯を食べながらとか寝る前にiPadで描いています。
 珍しく無料記事として物語を放出している理由は、今のところ「日常の空き時間に、細かいことは何も考えずに、ちゃんと終わるかどうかもまったく分からずに、勢いで作っているから」という、こちら側の気の持ちようの問題です。(他の無料記事が同じ理由で無料というわけではありません。)

(作・挿絵:中村珍/初出:本記事)

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コミック無職

noteは超不人気マンガ家(中村珍)が無職になったとき「自力でweb雑誌みたいなのやって描き続けよう」と思って始めました…が、存外にうまくいき、おかげ様で今は忙しいです。犬と、ゲームと、マンガ描くのが好きです。| https://ching.tv

増刊|コミック無責任&文芸たぶん

【増刊 文芸たぶん】は勢いで書いた「ひとふで小説」と定期連載化できない物語調の書き物を収録しています。仕事コラムなどのルポ系読み物は他のマガジンにまとまっています。 【増刊 コミック無責任】は定期連載に格上げできない、しかしちょっと描いてしまったマンガたちがたむろする控え室です。