
ひとふで小説|レンガイケッコン(12)
これまでのお話:前回/第1話/収録マガジン
(12)
汁気の多いカツ丼のためにビニール袋を1枚だけロールから捥いだ蓮本は、軽く苦笑のような溜息をついた。
「このビニール袋も、レジ脇に設置して必要な枚数を売ってくれればいいんじゃないかな。お金を払った利用者へのホスピタリティ的な設置なんだろうけど、タダじゃないんだし」
溜息は、ビニール袋を過剰に持ち帰る迷惑客の存在に対する落胆が主な理由。苦笑は、ポスターに書かれた文言をうまく面白がれなかったこと、もとい、東之と笑うタイミングがずれていないか気にしすぎる自分が滑稽だったことが主な理由だった。
「管理人さんはこのポスターに気付いてあげたけど、きっとみんながみんな読むわけじゃないでしょ?日本語が読めない人や子供には通じない可能性だってあるし…。ロールの移設もタダじゃないし大変だろうけど、分かりやすくレジで売った方が長い目で見たらいいと思うんだけどな。…それに、貼り紙用のデータを作って、印刷して、ディスプレイするだけで人件費も材料費もかかるじゃない?…まあサービス残業とか、休日に家でやってきたとか、悪い意味でコストかかってないかもしれないけど…」
蓮本が喋りきるのを待ってから、東之は頷いて、口を開いた。
「…苦手かもしれないですしね、こういうの。これ作った人。私、マンションの管理人をやるようになって、…あ、敷地内の貼り紙って地域から来るお便りとか以外は私が作ってるんですけど、画像を印刷する時は小さな画像を使っちゃダメなんだって、管理人になって初めて知ったんですよ」
そう言ってサッカー台の案内を見直す東之の視線を追った蓮本は、彼女の謂わんとするところを理解した。案内の右下には店名ロゴが配置されており、著しく低い解像度のまま堂々と刷られている。そうでなくてもドットでできた大昔のテレビゲーム画面みたいに見えるのに、プリンターのノズルまで汚れているのか、ところどころが大胆に掠れており、お世辞にも美しいとは言えない仕上がりだし、識者が手掛けた仕事とは思えない。
「初めて案内を作ろうとした時、こんな感じになっちゃって困ったんですよね。ワードソフトで打ち込んだ文字だけハッキリ印刷に出るんですけど、図説や挿絵を入れたら絵のところだけこうやってボケちゃって。だから、これ作った人も、こういうこと苦手で時間かかったかもしれないから、人件費かけたなら成果のわりに大きな出費だし、かけてないなら問題だし、って思いました。…時間かけてないからこうなっちゃったのかもしれないし、逆に、実は得意すぎる人が、タダ働きを頼まれたからキレてこの仕様にしたのかもしれないですけどね。ははは…」
何かについて想像して話す東之が『自ら採用した想定』のほかに考え得る『別の想定』も用意して付け加えるところに、蓮本はしみじみと好感を持ちながら聞いた。
「そういえばサッカー台のサッカーって、あっちの、もちろん蹴るサッカーじゃなくて、リュックサックのサックなの?」
「はい。多分、エスエーシーケーイーアール?…サック・イーアールで、袋に詰める人みたいなこと、かな?」
弁当を袋詰めしながら蓮本が尋ねると、東之は軽く頷いて、指先で空気に文字を綴る動作をしながら答え始めた。
「でも、お待ちしている間に私も気になったから調べたんですけど、サック・イーアール説とは別に、さっか…えと、作物のさくに集荷出荷のかって書く“さっか”で、“作荷”台説もあるみたいですね。私のスマホだと一発で作荷っていう漢字変換も出ないし、日本語辞典にさっかって入れても作家さんの作家や擦過傷の擦過とかラストサマーの昨夏みたいな、普通に見たことあるさっかシリーズしか出てこないんですよ。だから最近の言葉か造語かもしれないし、確実な資料には辿り着けなかったんですが」
「へー、それじゃあ、さっか台とサッカー台があるんだ」
「みたいですね」
東之が答え終えると同時に、袋詰めを終えた蓮本は清算済みのカゴを台の脇に片付けた。カゴは銀色の筒状のパイプにキャスターがついた何らかの上に重ねられており、蓮本はきっとこれにも正式な名があるのだろうと思いながら、自分の使用したカゴが綺麗に重なったか、カゴの中にレシートや小さな商品を忘れていないか確認するための一瞥をくれた。
「サッカー台かー…、聞いたことなかったけど、メジャーな呼び方ならちょっと表現が便利になっていいな。スーパーで買った商品を袋詰めをする台で、って書かなくても、サッカー台って書けばいいんだもんね。でも、原稿にサッカー台、さっか台?って書いて、そのまま通じるのかな…」
歩き始めた蓮本は、やや後ろ手に人差し指と中指の爪でトトトと、鍵盤を弾く手つきでサッカー台をつつきながら壁際を通り過ぎる。
「少なくとも昨日までの私には理解の及ばないことでしたねー」
東之が特段の気遣いもない語調で答えると、蓮本も漫然とした調子で、
「ねー」
と返した。
「…でも私もう昨日までの私とは違うわ…ッ。昨日までの無知な自分にさよならして今日からはあれがサッカー台だと知ったかぶれるのね…ッ」
「そうですね…ッ!!さっきVvikipediaで調べただけなのに、サッカー説とさっか説の両論を元々知ってたみたいにひけらかせる人生が始まるんですね…ッ!!」
「……ねえ管理人さん、真面目に働いてらっしゃるから気づかなかったけど、思ったより付き合いのいいおしゃべりをしてくださるんですね」
昼の街は相変わらず賑わっていたが、昼食を求めて出歩いていた風の人々は二人がスーパーを出る頃にはすっかり建物のどこかしらに収まったようで、ほうぼうの窓の中には人影が増えたように思える。
「お弁当買ったばっかりなのに、外食してる人見ると羨ましくなっちゃいません?私よく食料品の買い出し行った帰りに寄りそうになっちゃうの。ファミレスとか」
スーパーの駐車場を横切りながら、通りを見渡すようにして蓮本は言った。
「それで、寄っちゃうんですか?」
東之は蓮本の言葉の大半を信じつつも最後の「ファミレス」という部分についてだけは、もっと洒落た飲食店をたくさん知っているくせにと思いながら質問を返した。
道路沿いにはいくつもの飲食店が点在し、店の立地と窓の設計によっては、夢中で食事する客の姿まで見える。蓮本の視線も東之の視線も自然と、ホワイトペンで直接メニューが書かれたイタリアンレストランの窓ガラスであったり、外壁にメニュー板が嵌め込まれた中華食堂の入り口であったり、食に関する景色に向けられた。
「寄らない。ファミレスなんか寄ったってどうせ美味しいものなんかない!って自分に言い聞かせて、寄らない」
蓮本はわざと口をへの字に曲げて答える。
「西関さん偉いですね。さすが、自己管理できてますね。私は寄っちゃうことありますよ」
東之は蓮本の自制を心底褒めながら、それとは別の心で、結局ファミレスに寄らない蓮本の真実に、人物像を見透かせたような満足をおぼえた。
東之の満足に気づかない蓮本は、平凡だった。日焼けしてすっかり褪色した中華食堂のメニュー板の中ほどに大きくプリントされている、エビチリと思しきものがとろりとかけられた炒飯の写真を見つけて、早速トンカツから離れそうになる自分の心を必死で繋ぎ止めている。
つい先ほどまで食べたかったはずのクロックムッシュへの慕情はとうに忘れ、手許のチーズハンバーグ弁当をなぜ買ったのかは最早よくわからない。ソースカツ弁当とカツ丼だけで良かったのではないか。なぜ自分はチーズハンバーグ弁当も買ったのか。蓮本の食欲は移り気で、カツが食べたいと思った矢先にチーズハンバーグ弁当まで買ったことにより既に過ちを犯し気味だというのに、ここで更に心を離したらカツ丼までもが後悔に転じてしまうかもしれない。
気を取り直すようにして中華食堂から目を逸らした蓮本は、
「ほー、寄っちゃうんですか。で?直近はいつイケナイことをしたんだね?」
と、なるべく陽気に東之に尋ねた。
「つい先週、やりました…」
「あーあ。何作る予定だったの?」
二人の歩くリズムに合わせて、時折ビニール袋が音を立てる。どちらが歩調を合わせているのか、もともと合っているのかは互いに分からなかったが、通り沿いの広い歩道を二人整然と並んで歩いた。
「お肉が安かったので、すき焼きの真似事みたいな材料を家の近所のスーパーで買って…。本当に、あと五分ぐらいで家だったんですよ…我慢するつもりだったんです。でも気付いたらもう…」
「などと供述しており…。何食べて帰ったの?」
「…牛丼」
「あーはいはいはいあはははは分かりやすいですね、あーゆう感じのもの食べたかったんだその日は」
「そうです、お肉を煮たもので、ごはん…白いごはん、ツユとお肉で」
「ほんのり甘みのある」
「まさにまさに…」
「いいなあ、美味しいですよね、すき焼き。すき焼き食べたくなってきちゃったなぁ。今からスーパーに入るところだったら私きっとお肉と野菜いーっぱい買って、一人で食べても寂しいから、管理人さんが帰りにうちですき焼き食べていかないか口説いちゃったと思うなぁ」
東之への求婚計画は封印を解かないつもりで胸の底に埋めたのだが、ふとした時に試しそうになってしまう。
誘ったら、来てくれるだろうか。
(作・挿絵:中村珍/初出:本記事)