
ひとふで小説|レンガイケッコン(5)
これまでのお話:(第1話)〜(収録マガジン)
(5)
自分に対してさえ『恋外結婚』を明確に定義づけることはできていなかったが、とにかく蓮本は、どうにか東之と親しくなれないかを考え続けている。
惰性で飲み続けた紅茶はもう三杯目、悩んでいる時の蓮本はいつもこうだった。1箱100杯299円。計算上は1杯約3円になるはずだが、同じティーバッグで淹れ続けたので紅茶の外箱に書かれた売り文句の計算は既に狂わされている。
蓮本は決して世に言う“ケチ”ではなかったが、こだわりが強かった。強いが故に、茶葉の種類や淹れ方に依存して生まれる紅茶の味と香りを隅々まで理解できない自分の鈍い味覚と優れない嗅覚に嫌気がさして、こだわりのない飲み方に辿り着いた。
飲み比べれば「どれが何の種類なのか」は分かる。ただ、それを言語化して「どれがどう良いこれの特徴はこうだ」みたいな話を紡ぐのは不得手だった。
時折、雑誌やテレビ番組のグルメ特集に呼ばれることもある蓮本は、そういう時、とびきり緊張しながら、大枚をはたいて執拗な予習をして挑むのだった。味を知るために、味も分からなくなるほど根詰めて。好きではないものの、好きな部分を探すために。だからグルメ関連の業務に就いている時の蓮本の帳簿は、あまり明るくない。予習の経費が重く、利益がさほど残らないのだ。
(管理人さんは、紅茶好きかな…。どの茶葉が好きとか、あるのかな…。食事やお茶の話をしてついていけなかったらどうしよう…すごくオシャレな食事しかしない人だったらどうしよう。私、ついていけるのかな。……こういうコンプレックス解消できたらいいのに。お嬢様育ちとかだったらどうしよう…。……怖い、誰かの暮らしの質を目の当たりにするのって。自分がいかに物を知らないか、全部バレちゃうんだから…)
悩めば悩むほど、紅茶のコストパフォーマンスは上がっていった。
ところで、蓮本はこれまでの経験で、友情でも恋愛でも何でも一方的に強すぎる想いを寄せられる煩わしさを知っていた。だから、東之を怖がらせることなく、東之に迷惑を掛けることなく、事を運ぶにはどうすればいいのか苦心している。
「管理人さんが、私のこと好きならいいのに…」
都合の良いことを考えてしまう。ここで想定している“好き”は無論、後腐れのない“好き”のことで、もはや“愛”のようなものだった。執拗になることなく、思い遣って、要求を押し付けてくることもなく、それでいて自分を求めてくれて、けれどもこちらが応じたとき以外は適切な距離を保ってくれるような、猛烈に静かな愛情のこと。誠実で満たされた片想いのこと。
「私、つくづくヒガシノさんに失礼ね。…ヒガシノさんで合ってたっけ、名前…。下の名前はなんて言うのかな」
(食事に誘う?なんで?趣味を聞く?なんで?どのタイミングで?なんで?休日を聞く?なんで?なんで?何を聞いても「なんで」って思われる気がする。どうしたらいいの!?)
主演クラスの登場人物として東之を組み込んでいるのに、東之の意思など介在しない身勝手なドラマは、まるで稚拙な恋のようだった。付き合ってもいないのに、食事に行くならどのお店がいいか、デートに行くならどんな場所がいいか、真剣に考える。片想いの時期に何度も繰り返した空想上の検討。思い描いている瞬間にだけリアリティを味わえる妄想。
こうした企図を独りで繰り広げる間は楽しい瞬間もそれなりにあるけれど、結局のところ不安に苛まれるのが常だ。自分は、自分の考えは受け容れてもらえるのだろうか。
何が喜ばれるのだろう。そもそもこんな身勝手なことを考えている“気持ち悪さ”の存在がバレたら、相手を不快にしてしまうのではないか。
不快に違いない。
でも、なんとかならないか。
いいや、不快に違いない。
十代の頃から今に至るまで、誰かを相手に妄想上のデートや贈り物をするたび、何度も繰り返してきた自省を再びしている。深く潜っては我にかえり、深く潜っては、我にかえる。
(どうしたものかな…。管理人さん、好きな食べ物なんだろう。私にお茶しませんかなんて言われたら、やっぱり嫌かな。休日は何しているのかな…)
どんどん安くなっていく紅茶色の湯を啜りながら途方に暮れていると、蓮本の視界の隅を何かが横切った。確かに、何かが。
黒い、大きい、何か。
(あ、ゴキ…)
蓮本は慌てて、洗面台の下の収納にしまってある殺虫スプレーを取りに行った。現れたのは、それなりに強力な噴射力を持ったスプレーを撃っても苦戦を強いられそうな壁の上方に、カナリの大物である。運の無いことにトリガーを引いた殺虫スプレーは二秒ほどシューと白煙のようなものを見せたきり、あっという間に大人しくなってしまった。持った瞬間に「軽い」とは思ったが、これは、カラだ。
(しまった、ぬかった…)
蓮本が虫との戦いに劣勢を極めたその朝、一方の東之も調子が悪かった。
この言い方は大げさだ、と自分でも思ったが、それでも言葉にするなら「世界を嫌いになるような」気分だった。
体調は良いはずだし、寝不足でもない。月経は終わった。排卵はまだ暫く先だ。考えられる原因といえば、パッケージの雰囲気で絶対に軽めのコメディだと思って寝る前に観た映画が示唆に富んでいて疲れたせいか。いや、そんなことを翌日まで引き摺ってしまうものだろうか。
浮かない気持ちで家を出ると、絵に描いたような晴天だった。
(けっ、能天気に晴れやがって…)
どう考えても今朝の自分はトゲトゲしている。どこかが何か腐っている。
東之は正体不明の悲嘆と苛立ちに不安を覚えて、心の観察を試みたが、どうしても分からなかった。得たものといえば、心の波にさらわれているうちにお弁当を家に忘れてきたらしいという気づきだけだ。
結構気に入っている料理を詰めたのに、残念だ。その事実が余計に東之の調子を狂わせた。
勤務開始時刻の10分前に管理人室に入ると、東之は毎日同じ、濃紺の作業服に着替える。べつに、制服というわけではない。
職場の説明を受けた日、灰色のスウェットズボンに緑のセーターを着たオーナーはサンダル履きの足元を指差して言った。靴下は赤と白のボーダーだ。
「服装?ああ、服装ねえ。考えたこともなかったなぁ。警備員さんたちはカッコイイやつ着てるよね。ここにかっこいいワッペンついてさ。帽子も、僕あの帽子一度被ってみたいんだよねぇ。服装かあ、そうだねえ、掃除があるから高い服は着ないほうがいいと思うんだけどね、あとはなんでもいいよ。僕なんてほら、いつもこんな格好の管理人だったしね。なっはっは。あ、寒い格好はしないでね。掃除の時に風邪ひいちゃうから」
初日は白いセーターと紺のジーンズで出勤した。足元は、さすがにオーナーのベランダサンダルの真似ができず、ダークブラウンの手頃なローファーを選んだ。
翌日は灰色のパーカーに、やはり紺のジーンズで出勤した。その翌日、少し寒かったので深緑がベースの厚手のチェックシャツの上にベージュのベストを着て出勤した朝、和紙の便箋に万年筆のような筆跡で書かれた投書が管理人室に届いていた。
「小生、一介の住人でありますが新管理人殿の服装が高校生が遊びに行くような姿でだらしない様に思います。本人にとってもマイナス。当マンションの品格を下げる行為をどうお考えか問いたいところ改善に期待して耐えます。アドヴァイスしますがスーツなど手に入れてはどうでしょう。若いうちこそ仕事を馬鹿にせず誠心誠意取り組むのが良いです。 一住人」
謝罪と改善の誓約のため訪問しようとしたが、匿名の投書だったため何号室の誰によるものかは分からなかった。電話で一報入れた東之は家路につくより前にオーナーの元へ出向き、新任早々苦情を発生させてしまった不徳を詫びた。オーナーはただ大笑いしながら、東之が持参した投書を読んだ。
「へええ〜、めんどくさい人がいるんだねぇ。僕よりちゃんとした格好してるのに怒るなんて、なぁに考えてんだろ。だったら僕にもこの手紙を送ってこいってんだい、ねえ?きっと弱そうだからこんな言い掛かりつけられたんだねえ。女の子だし、うんと若いし。なあーにが当マンションの品格だい。自虐みたいなこと言うけどねえ、もともと僕が経営できるようなマンションに品格も何もないんだよお。カジュアル!カジュアルなの!僕のマンションは!あのへんの平均よりうーんと手頃なんだようちは!僕みたいなぼんやりした老人が座ってるより、こんなちゃんとした人が来てくれたんだから品格上がったじゃない?変な仕事お願いしちゃってごめんねえ。大丈夫?もう辞めちゃいたい?少し休む?ねえ東之さん、もう晩御飯食べた?この時間に来てくれたってことはピューッて、マンションからそのまま来たんじゃない?お腹空いたでしょ?」
オーナーはその後、妻と東之を連れて行きつけの小さなイタリア料理食堂に行き、ピザを四枚振る舞った。生地はふっくらと焼き上がり、ピザの耳がこぼれそうなほどのチーズを抱えて厚く膨れている。ほどよく焦げ目がついて、ふんだんにのせられた野菜の皮は破れ肉はふつふつと音を立て、そこから旨味を湛えた汁が溢れている。
東之は終始オーナーに礼を述べ、今後も勤続する意志を伝えた。念の為、明日以降はスーツで出勤する予定であることも。オーナー夫妻はつまらない苦情など真に受ける必要はないと言ってくれたが、東之はこの人の物件の評判を落としたくないと強く思った。
その翌日から、東之はスーツで勤務するようになった。結局今度は、スーツと革靴で掃除をするなんて働く気があるのか、と苦情を受けて、最終的に辿り着いたのが今の作業服だ。
「おはよう、ヒガちゃん。今日天気いいねぇ」
「おはようございます!そうですね、すごく晴れてますね!でも気温は低いから風邪ひかないようにしてくださいね。外ちょっと寒かったですよー」
「おう、ヒガちゃん!じゃあ俺上がるねー。頑張ってねー」
「おはようございます、お疲れ様でした。お気をつけて」
警備会社から派遣されている担当者がドアの向こうから顔を出すのは日課になっていた。防災センターと呼べば大仰な、宿直用の小さな部屋は管理人室と隣接していて、ちょうど東之が出勤する頃に遅番と早番の担当者が入れ替わるから賑わう。
どうにか明るく朝の挨拶は済ませた東之だったが、調子が出ないのは相変わらずだった。
(なんだろう、なんで私こんなに今日モヤモヤしてるかなぁ〜…)
東之は「巡回中」と書かれた三角錐の筒を窓口のちょうど中央に立てて、その脇に案内版と呼び鈴を置いた。透明なプラスチックでできたホルダーにはA4サイズのコピー用紙が挟み込まれ、管理人不在中は防災センターに用事を伝えて欲しい旨が刷られている。
管理人室にある背の高いロッカーを開けて腰丈ほどのホウキとステンレス製のチリトリを取り出すと、別の戸棚からはゴミ袋を取り出した。大きなゴミ袋が数枚入ったビニールパックを二つ折りにして、ズボンの後ろに付いたポケットに手早く押し込んだ東之は、防災センターのドアをノックして元気よく言った。
「巡回行って来るので、お願いしますねー!」
「はいよ。行ってらっしゃい」
東之が一階の廊下を掃除していると、和菓子を引き取った老人が廊下側の窓から顔を出した。
「あ、おはようございます」
「管理人さん管理人さん、昨日はありがとう。とっても美味しかった。お掃除に来てくれるの待ってたの。あのお姉さんにお礼を買ったんだけど、渡してもらえる?」
「ええ、もちろんです。今お預かりしたほうがよろしいですか?もし後でも差し支えなければ、私、今掃除を始めてしまって手を洗っていないので、贈り物をお預かりするならできれば掃除の後に手を洗ってからのほうが…と思って…」
汚れて燻んだ軍手をはめた両手の平を老人に見せ、東之はグーとパーを二往復つくって見せた。
「ごめんね忙しいのに。いつでもいいからね」
一階の掃除を終えた東之は、階段を上りながら不調の原因を考え続けている。さっき、老人の顔を見た時に何か引っかかる感触を心に感じた。
(…あのおばあちゃんに何か思うようなことあるかなぁ…。うーん………)
階段を一段、また一段、のぼりながら考える。
二階の清掃を終えて、三階に向かおうとした瞬間に気づいた。
「!」
(うぇ〜、わかった…ハスモ…“西関さん”のことでモヤモヤしてるんだ私…)
やっとの自覚を踏みしめるようにして、東之は、一段、一段、また一段、一段、蓮本が害虫と対峙している三階へと続く階段を、あがって行った。
つづく
■シリーズの収録マガジンと一覧
「ひとふで小説」は、何も考えずに思いつきで書き始め、強引に着地するまで、考えることも引き返すこともストーリーを直すことも設定を詰めることも無しに《一筆書き》で突き進む方法でおはなしを作っています。
元々は、具合悪くて寝込んでいた時に「いつも通りストーリーを練って本腰で働くほど元気じゃないし、長時間起き上がって作画するのは無理だけど、スマホに文章を打ち込めないほど衰弱してるわけでもなくて、ヒマだなー…」っていうキッカケで、スマホのテキストアプリに書き始めました。いつもは構成も展開もラストシーンも大体決めて原稿に取り掛かるので、たまには違う作り方も面白いから、即興で突き進み、溜まったものを小出しにしています。挿絵も、こまかい時間を活用して、ご飯を食べながらとか寝る前にiPadで描いています。
珍しく無料記事として物語を放出している理由は、今のところ「日常の空き時間に、細かいことは何も考えずに、ちゃんと終わるかどうかもまったく分からずに、勢いで作っているから」という、こちら側の気の持ちようの問題です。(他の無料記事が同じ理由で無料というわけではありません。)
(作・挿絵:中村珍/初出:本記事)